「見えている方は、どうぞ。」 寂れた酒屋にかかる看板には、そう書かれていた。 間違いなくそこにあるのに、見えている方は、とは? まさか、心霊現象……? だが男は、恐怖より好奇心が勝り、店に入ってみることに……。
見えている方は、どうぞ。
男は店を見た。
看板を読み返し、もう一度、店を見た。
店は、どう見てもそこにあった。
さびれた商店街のいちばん奥。ほとんどの店がシャッターを下ろすなか、その酒屋だけが薄暗い明かりをともしている。
看板の脇には、色褪せた札が貼られている。
黒い線が文字とも図形ともつかない形で絡み合い、下には赤い印が押されている。神社のお札にも見えたが、どれだけ目を凝らしても、一文字も読めない。
男は一瞬、自分が見てはいけない店を見ているのではないかと思った。
霊感のある者にしか見えない店。
今どき、そんな馬鹿な。
ガラス戸の向こうは、拍子抜けするほど普通だった。
色褪せた値札。積み上げられたビールケース。レジで新聞を読む白髪の老女。
普通すぎることが、かえって不気味だった。
それでも好奇心が勝り、男は戸を開けた。
「いらっしゃい」
老女は新聞から目だけを上げた。
棚に並ぶのは、見慣れた酒ばかりだった。だが、レジ脇の木箱から覗く藍色の瓶に、男の足が止まった。
「まさか……『心眼』ですか」
新聞がゆっくりと下がった。
「知っているのかい」
「父が一度だけ飲ませてくれました。良い思い出です」
『心眼』は、知る人ぞ知る秘蔵酒だ。
正規の販売店は非公開で、定価は一万二千円。転売市場では、一本四十万円を超えることもある。
老女は新聞を畳んだ。
「一本、いるかい」
「良いんですか。来週、父の七回忌なんです」
「なら、持っていきな」
男は代金を払い、包みを受け取った。
「それにしても、あの看板は?」
老女は店の外に目をやった。
「答えが来たよ」
そのとき、黒い車が店の前に止まった。
運転手が端末に怒鳴る。
「『心眼』が、この辺に入った。販売店を出せ」
『周辺に該当する酒販店はありません』
「配送車は、この商店街に入ったんだろ」
『映像を再解析しましたが、納品先は確認できません』
運転手は顔を上げ、一度だけ酒屋を見た。
「目の前の店は?」
『閉鎖済みの空き店舗です』
運転手は眉をひそめた。
それでも、自分の目より端末を信じ、車を走らせた。
「あれは、転売屋ですか」
「そうらしいね」
「では、あの札が?」
「魔除けさ」
「何を遠ざけるんです?」
老女は新聞を開いた。
「酒を飲まない客を」
男は察した。
今の転売屋は、自分の足で品物を探さない。
AIが配送映像や客の投稿、決済情報を拾い、希少品の入荷を突き止める。価格差を計算し、買い子を集め、最短経路まで指示する。
一人一本なら、百人を並ばせる。
酒の名も、味も知らない。
瓶は開けない。
ただ、値札だけを付け替える。
「人には、ただの模様に見える」
老女は札を指した。
「けれど機械には、『見るな、覚えるな、誰にも教えるな』と読めるらしい。あれが映ると、店ごと見なかったことにするんだとさ」
男は、もう一度看板を見た。
見えている方は、どうぞ。
あれは、霊感のある者を招く言葉ではなかった。
店は、ずっとそこにあった。
ただ、自分の目を手放した者には、見えなかった。
