最近、急速にSNSを開く頻度が減っている。
タイムラインを眺めていても、以前のような楽しさや知的な刺激よりも、ある種の「だるさ」が先に立つようになったからだ。
なぜこんなに疲れるのか。その正体を考えていたとき、ふと、数年前に訪れたインドの街角の記憶が鮮明に蘇ってきた。
インドのカオスは好きだった。でも、「気疲れ」がひどかった。
私はインドの街が持つ独特のエネルギーや、猥雑でカオスな空気感そのものは決して嫌いではなかった。刺激的で、日本では決して味わえない生命力に満ちていた。
だが、どうしても耐えがたいものがあった。
それは、日常のあらゆる場面で発生する「異常な気疲れ」だ。
特に、お金のやり取り。
売店で水を買えば、当然のような顔でお釣りを少なく渡される。オートリクシャー(三輪タクシー)に乗る前に行先と値段をきっちり交渉したはずなのに、目的地に着くと平然と上乗せした金額を請求してくる。
騙そうとする輩が至るところにいて、一瞬たりとも気が抜けない。
「これは本物の紙幣か?」「言っていることは本当か?」「裏で何か企んでいないか?」
水一本買うのにも、タクシーで移動するのにも、全方位に疑いのアンテナを張り巡らせていなければならない。
あのとき感じた、脳がじわじわとすり減っていくような疲労感。
今、私がSNSのタイムラインに見ているのは、驚くほどあの時の「だるさ」と同じ匂いなのだ。
爆下がりした「生成コスト」、爆上がりした「信用コスト」
生成AIの進化によって、コンテンツの「生成コスト」は限りなくゼロに近づいた。
写真と見紛うような画像も、もっともらしいフェイクニュースも、まるで本人が喋っているかのようなディープフェイク動画も、誰もが一瞬で作れるようになった。
だが、忘れてはならない経済の原則がある。
「どこかのコストが劇的に下がったとき、別のどこかのコストが爆発的に跳ね上がる」ということだ。
下がったのは「作るコスト」。
跳ね上がったのは、受け手側の「信じるためのコスト(信用コスト)」だ。
かつてのネット空間にもデマや嘘はあった。しかし、昔の偽物はどこか粗雑で、少し目を凝らせば違和感に気づけた。
いま流れてくるフェイクは、あまりにも高度化している。本物と偽物の境界線が完全に溶けてしまった結果、私たちは流れてくるすべての情報に対して、
「この動画は本物か?」
「この感動的なエピソードはAIが書いた釣りではないか?」
「このアカウントは実在する人間なのか?」
と、“すべてを疑ってかかる”ことを強いられている。
問題はAI技術そのものではない。それを悪用し、安易なインプレッション稼ぎや詐欺のために、本物そっくりの偽物を垂れ流す人間たちだ。彼らの手口は、旅人をカモにして小銭をかすめ取ろうとする悪質な客引きと何ら変わりがない。
「疑い続けること」は、人間にとって高すぎる代償
脳科学や心理学でも言われているが、人間にとって「常に疑い、真偽を検証し続ける状態」は、猛烈にエネルギーを消費する。
旅先で数日間ならまだ耐えられるかもしれない。しかし、日常の隙間時間にリラックスするために開くはずのSNSで、なぜインドの路地裏のような極度の警戒態勢を強いられなければならないのか。
「このコンテンツは本物かどうか」を検証するために払う精神的コストは、私にとってあまりにも高すぎる代償になった。だから私は今、かつてないほどSNSから距離を置き始めている。
世間では「AIが人間の仕事を奪うか」「AIがプラットフォームをどう進化させるか」といった議論ばかりが目立つ。
だが、もっと現実的で身近な変化は別のところで起きているのではないか。
技術の進化によって情報の信頼性が底割れし、ユーザーが「疑うこと」に疲れ果てて静かに画面を閉じていく。
SNSという巨大な広場を本当に廃れさせるのは、規制でも競合サービスでもなく、AIによってもたらされた「信用コストのインフレ」なのかもしれない。
