世の中には「ドッペルゲンガー」と呼ばれる現象がある。
それは、自分と全く同じ姿の人間を目撃するというものだ。古い言い伝えでは「死の前兆」とされ、ドッペルゲンガーを見た人間はやがて死に至ると言われている。
なぜ私がこんな話をするのか?それは、他でもない、私自身がそのドッペルゲンガーを目撃してしまったからだ。
あれは、小雨が降る日のことだった。私は、お気に入りの青空模様の傘をさし、街へ買い物に出かけていた。いつからだったか、雨の日は必ずこの傘をさしていた。
週末の繁華街は多くの人で賑わい、すれ違う人々の傘がぶつからないよう、普段以上に気を遣いながら歩く。
ようやく目当てのブランド服の店にたどり着くと、店内は意外にも空いていた。どうやら、この悪天候で客足が遠のいたらしい。
私は、いつもより静かな店内で、ゆったりと買い物を楽しんでいた。その時、ふと視界の端に何かが引っかかった。窓の外に目をやると、そこには私と同じ、青い空がプリントされた傘をさした、私に瓜二つの人物が立っていたのだ。服装こそ違えど、背丈も髪型も、まるで鏡に映った自分の姿をそのまま見ているかのようだった。
私と同じように、窓の外の「私」も、突然のことに驚愕の表情を浮かべている。
我に返った私が窓に駆け寄ろうとすると、「私」は踵を返し、足早に雑踏の中へと消えていった。
慌てて店を飛び出し、周囲を見回したが、既に「私」の姿はどこにもなかった。雨足は、いつの間にか強くなっていた。
家に帰ってからも、私はあの出来事を反芻していた。
あれは何だったのか? 単なる偶然の一致にしては、あまりにも似すぎていた。それに、あの青空の傘……。あれは、私が大切にしている、お守りのような傘だ。もちろん、同じような傘は、探せば世の中のどこかにあるだろう。
しかし、なぜ同じ日に、同じ店で、私と瓜二つの人が同じ傘を持っているのか、偶然にしてはあまりに出来すぎている。
私は、言いようのない恐怖に襲われた。あれは、間違いなく「私」だった。私以外に「私」が存在したのだ。
そういえば、このような現象には名前があったはずだ……そうだ、「ドッペルゲンガー」。
まさか、心霊現象などとは無縁だと思っていた私が、ドッペルゲンガーを目撃するなんて。信じられない出来事だった。
この不思議な体験を誰かに相談したいと思ったが、冗談か見間違いだと笑われるのがオチだろう。特に会社の人間は、私が少し抜けていることを知っているので、馬鹿にされるに違いない。
そう思い、数日が過ぎたある日。仕事を終えて帰宅すると、郵便受けに見慣れない白い封筒が入っていた。差出人不明の、不気味な手紙。
封を開け、震える手で便箋を取り出すと、そこにはたった一行、こう書かれていた。
―――雨の日の店で見たことは、誰にも話すな。警察にも、友人にも。
私は全身の血の気が引いていくのを感じた。差出人の名は書かれていなかったが、筆跡を見れば一目瞭然だった。なぜなら、それは私の筆跡と寸分違わぬものだったからだ。
「やっぱり、あれは私だったんだ」
私は、恐怖でがたがたと震えながら、郵便受けの前で呆然と立ち尽くした。
私はドッペルゲンガーの居場所も、目的も知らない。しかし、ドッペルゲンガーは私の家の場所を知っている。あの日、尾行されていた可能性も否定できない。
しかし、なぜこんなことに……? まるで、私がミステリー小説の主人公にでもなったかのようだ、と場違いにも思った。
それからというもの、私は常にドッペルゲンガーの影に怯えるようになった。どこかで監視されているのではないか、そんな疑念が常に頭から離れず、私の心を蝕んでいった。
精神的に追い詰められていく私。このままでは、本当に「死の前兆」が現実のものとなってしまうのではないか。そんな恐怖が、まるで影のように私を包み込んでいた。
一人でこの問題を抱えきれなくなった私を不審に思ったのか、ある日、会社の社長が私に話しかけてきた。
「どうしたんだ?最近、元気がないじゃないか。仕事の悩みかな?」社長は私に聞いた。
「いえ、仕事のことではありません」
社長は、高校を卒業したあと、両親の反対を押し切って上京した無一文の私を拾ってくれ仕事を与えてくれた、命の恩人だ。
結局、私は自分の夢を叶えることができず、そのまま正社員となったのだ。
両親とは絶縁状態になった私にとって、父親のような存在だった。
社長になら言ってもいいだろう、そう私は思った。
「社長……。信じられないかもしれませんが、実は私、ドッペルゲンガーを見てしまったんです」私が恐る恐る告白すると、真剣な社長の顔がふっと緩み、大笑いした。「君も冗談を言えるようになったんだなぁ」と嬉しそうに言って、どこかに行ってしまった。
私は、ちゃんと私の悩みを聞いてくれるのは恋人しかいないと思い、週末に恋人とレストランで会うことにした。
「ずいぶん疲れているみたいだけど。何かあったの?」
恋人は、やつれた私の顔を見て、心配そうに尋ねた。
「実はね、この前、ドッペルゲンガーを見ちゃったの」
「ドッペルゲンガーって、あの都市伝説の?」
恋人は半信半疑の様子だったが、それでも私の話を疑うことはなかった。
「君がそんな冗談を言う人じゃないことは、僕が一番よく知ってる。それでも、本当にそれがドッペルゲンガーだって、何か確証があるの?」
「どうやらドッペルゲンガーは、私の家の場所を知ってるみたいなんだ。ご丁寧に、手紙まで送ってきてくれたから」
「それは穏やかじゃないな。ドッペルゲンガーが、君にコンタクトを取ってきたってこと?」
「ううん、ドッペルゲンガーに遭遇したのは、あの時だけ」私はそう答えた。
「そのドッペルゲンガーはね、私と全く同じ青空の傘を持っていたの。けどあの傘、今まで私以外に持っている人を見たことがないわ」
それを聞いた恋人は、何か考えている様子だった。
「なるほどね……。君が疲れている理由もわかったよ。とにかく、今日は家に帰って、ゆっくり休んだ方がいいだろうね」
恋人とは食事の後にそのまま別れ、家に帰った。
恋人に話を聞いてもらったことで、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
その夜は、久しぶりに深い眠りにつくことができた。
しかし、翌朝。玄関のチャイムの音で、私は目を覚ました。こんな時間に誰だろう。そう思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは―――「私」だった。
「忠告したはずなのに……」
ドッペルゲンガーは、冷たい声で、しかし、どこか悲しそうに言った。
「いや、これは……」
私は言葉を失った。言い訳をしようにも、喉が張り付いて声が出ない。
「もう、手遅れかもしれない」
その瞬間、私は全力で駆け出していた。
突然のことに、ドッペルゲンガーは一瞬虚を突かれたようだ。追ってくる気配はない。
私は走りながら、誰に助けを求めるべきか考えを巡らせた。何も持たずに飛び出したため、通信手段は一切ない。自宅に戻るわけにもいかない。私は藁にもすがる思いで、恋人の家へと向かった。
「どうしたんだ!?」
恋人は、息を切らした私を見て驚愕していた。
「ドッペルゲンガーが、私の家に……!」
「えっ……!? とにかく、中に入って!」
恋人の家に招き入れられ、私はようやく落ち着きを取り戻し、事の顛末を説明した。
私の話を聞いた恋人は言った。
「なるほどね……、しかし、その子、ルール違反だなぁ」
「え?ルール違反?どういうこと?」
その問いかけに、恋人はにっこりと微笑んで答えた。その笑顔は、ひどく歪で、恐ろしいものに見えた。
「心配しないで。僕が”通報”しておいたからさ」
「え……? 通報って、何のこと…?もしかして、あなた、ドッペルゲンガーと繋がっているの……?」
恋人は、くっくっと可笑しくてたまらないといった風に言った。
「君は、まだ分かっていないんだなぁ。君が言う、ドッペルゲンガーのことは知らないし、僕はその子に何も言ってないよ。ただ、僕は、一人のプレイヤーとして、バグを運営に報告しただけさ」
私は混乱した。目の前の恋人が、まるで別人のように思えた。いや、最初から、彼はこういう人間だったのだろうか?
その時、玄関のドアが勢いよく開かれ、一人の人物が飛び込んできた。
ドッペルゲンガーだ。
「逃げて!」
ドッペルゲンガーは私の腕を掴むと、そのまま手を引いて玄関を飛び出した。
「無駄さ! もう運営に通報済みだからな!」
背後から、恋人の勝ち誇ったような声が聞こえた。その声は、私を嘲笑う悪魔のようだった。
私たちは、無我夢中で走り続け、人気のない、古びた公園にたどり着いた。
「ごめんなさい。こんなことになるなら、最初からちゃんと話せばよかった」
公園の硬いベンチに腰掛けたドッペルゲンガーは言った。
「一体どういうことなの?」
私は、息を整えながら、隣に座る”彼女”に問いかけた。混乱はしていたが、不思議と冷静さを保てている自分がいた。
「あなたは……私の過去の姿なの」
“彼女”は、顔を上げずに言った。その声は、諦めと後悔の色を帯びていた。
「私が、あなたの過去……?」
私は混乱したまま、オウム返しに尋ねるしかなかった。
「正確には、あなたは、私がやり直す前の”私”なの」
“彼女”は、ゆっくりと顔を上げ、私を見つめた。その瞳は、悲しげな光を湛えている。
「この世界は、バーチャル・リアリティ・ゲームの世界なのよ」
バーチャルゲーム……? そんな馬鹿な、と私は反射的に否定しようとした。
しかし、ここ最近の出来事を思い返すと、その言葉は妙に説得力を持って響いてきた。まるで、ずっと感じていた違和感の正体を、ようやく見つけたかのように。
「私は、このゲームをある地点からやり直すことにしたの」
“彼女”は、遠い過去を懐かしむように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。その表情には、ほんのりと微笑みが浮かんでいる。
「あなたの生活や人生もそれなりに気に入っていたけど、別の人生も歩んでみたくなった。特に、高校卒業時に、別の夢を追う選択を、ね」
そう言って、”彼女”は寂しそうに目を伏せた。
「それで、過去のデータを削除して、新しい人生を始めたの。いや、削除したつもりだった。だけど……、なぜが過去の私は消えずに、ずっと同じ生活をしていたのよ。それがあなた。」
“彼女”は再び私を見つめ、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
「どうやら、ゲームのバグで過去のデータが完全に消去されず、この世界に残ってしまっていたみたい。そして、そのデータが実体化し、意思を持って動き出してしまった。それがあなたよ。本来、私たちは同時に存在してはいけない。それは、ゲームの重大なバグだから。この世界の運営にこの事実が知られたら、バグであるあなたは、強制的に削除されてしまう」
「でも、あなたを見た時、どうしてもあなたを削除させたくないと思ったの」
“彼女”は、青い空の傘をどこかから取り出した。
「この傘、私がこのゲームを始める時に、最後に設定したアバターアイテムだったの。とても大切なものなの」
“彼女”は、微笑んだ。
「あなたがその傘を大切にさして、街を歩いているのを見て……あなたも、やっぱり私なんだって、そう感じたの。それで……あなたを守らなきゃって、そう思って手紙を送ったのよ」
“彼女”は、そこで言葉を切り、悔しそうに唇を噛んだ。
「あなたの恋人は、運営と繋がっていたのよ。恋人は、あなたがバグだと気づいてしまった。だから、運営に報告して、報酬を得ようとしたのよ……」
「そんな……、嘘よ……」
信じられない話だった。しかし、”彼女”の真剣な表情、そしてこれまでの奇妙な出来事の数々が、これが真実なのだと告げている。
「ごめんなさい……」
“彼女”は、再び謝罪の言葉を口にした。その声は、今にも泣き出しそうに震えている。
私は、全身から力が抜けていくのを感じ、その場にへたり込んだ。頭がぼんやりとしてきた。まるで、電源が落ちる寸前のコンピューターのように、思考がゆっくりと停止していく。
「そうか……、私の方が、ドッペルゲンガーだったんだ……」
最後に頭に浮かんだのは、皮肉な真実だった。