大学三年の春休み。私は、就活の気分転換で、東北の山里へひとり旅に出ました。
山畑には霧が溜まり、大好きだった祖母の昔話を思い出しました。
そこで同年代の七瀬と出会い、意気投合して連れ立って村を巡ることになりました。
途中、地図に載っていないはずの山腹に、朱塗りの大きな鳥居がちらりと覗いていました。木立に埋もれたその鳥居だけが、夕焼けのように濃い赤を放っており、異様に目立ちました。
私は好奇心に駆られ、七瀬に「寄り道をしよう」と提案しました。七瀬も快諾し、私たちは鳥居を目指し、寂れた林道を歩きました。
小さな門の下をくぐった瞬間、あれだけ騒がしかった鳥の声がぱたりと消えました。
なぜか私は、子どもの頃、寝室のドアの向こうに気配を感じ、怖くて眠れなくなった夜を思い出しました。
さらに進むと、道端には地蔵が並んでいましたが、なぜかことごとく振り向いて、顔を背後の木々の闇に向けています。私は「なんで?」と息を飲みましたが、七瀬は一切に構う様子はなく進んでいきます。無風のはずなのに、掌に水草のような冷気がまとわりつきました。
しばらく石畳を進むと、立派すぎる拝殿が現れました。欄干は黒漆で、屋根瓦は鈍く濡れ、境内にはひとりの老女が箒を持って立っていました。
「遠いところを……ようきたねぇ。奥の本殿も、ぜひお詣りなさい」
老女の、透き通る声に私は背筋が泡立ちましたが、七瀬は目を輝かせ「良い香りがする」と呟きました。私には、湿った木くずと獣脂が腐ったような匂いしか感じ取れませんでした。
本殿の戸を開けた瞬間、木のはずの床は不気味なほど柔らかく、足裏がじわりと沈みました。体重を戻すたびに、微かな脈動がこちらへ跳ね返ってくるようでした。視線を巡らせると、壁には小さな節穴が等間隔に並び、どれも”眼”の高さに揃っていました。
七瀬はそのまま奥に進み、賽銭を放りました。両手を合わせて首を傾け、横顔でもわかるほど、恍惚の表情のまま長い無言を続けました。
私も祈ろうと思った時、ふと「縁も知らぬ社に深く祈るな」という、昔よく話してくれた祖母の言葉を思い出しました。仕方なく頭を垂れて「祈るふり」をしました。
その時、首筋に冷たい雫が一滴――驚いて天井を見ると、そこには無数の目の形の象形文字が描かれていました。そして、その文字が蠢き――瞬きを挟むと消えました。
背後に鋭い視線を感じ、振り返ると、あの老女が外廊下の暗闇からこちらを射抜くような眼差しを向けていました。
私は慌てて、まだ頭を垂れて祈っている七瀬の肩を揺さぶり、「帰ろう」と急かして、神社を後にしました。
宿に戻る頃には七瀬の頬は上気し、目の焦点は合わず、笑みを浮かべ「また来よう、絶対また来よう」と繰り返していました。
私は七瀬の言動に気味の悪さを感じていました。宿でも鼻をひくつかせたり、「あの香りが恋しい」と、ポケットの中で何かを探すように指を擦っていたのです。
旅から戻ると、七瀬の様子がなんとなく気になって、時折SNSを確認するようになりました。
綺麗な風景ばかりだったタイムラインは、次第に方言や謎のポエムで埋まり――最後に象形文字を書き残して途絶えました。
ところがある晩、七瀬から「再訪しよう、生きたまま渡れるうちに」とメッセージが届きました。その熱量に圧倒されながらも、私は返事を曖昧に先延ばしにしました。
そのメッセージからさらに数ヶ月後、親族の投稿で七瀬の訃報を知りました。死因は公表されず、遺骨は家族が”土に還した”とだけ記されていました。
画面を閉じても、私の指先はずっと震えていました。七瀬が死んだのはあの日、私と一緒に行動したからではないか? 鳥居に行くことを提案したのは私だったのに……。
七瀬の最後に残した象形文字。あれは、本殿の天井で見たものでした。あの場所に戻らないといけない。そんな気がしました。
でも、あの掌に絡みつくような冷気の感触を思い出すと、私はしばらく足を運べませんでした。
それから三年後、私は再びあの村に向かいました。……逃げてばかりでは、七瀬の死と向き合えない気がしたからです。
ところが、村に行ってあの場所を探すも、山腹の朱色の大鳥居が見つかりません。
雑貨屋の老人に社の場所を尋ねると、歯が抜けた唇で笑いながら、場所を教えてくれました。
「ボケた婆さんが守ってる茅森神社か。……あそこは”穢れの地”だて。戻れなくなってもしらんぞ」
引き返すべきか、私は最後まで迷いました。引き返す理由はいくつでも並べられました。
……そう、引き返す理由はいくつでもあったのです……
いまも机の引き出しに残る走り書きを、そのまま写します。
けれど足は山へ向かう。
夕立の匂いのなか、山道を進む。
濡れた土の匂い。
一歩、……また一歩。
風はなく、虫も、いない。
――静寂が鼓膜を押す。痛い。
鳥居が見える。あの時のまま……。
湿った獣脂の臭いが、風もないのに鼻腔を刺激する。
境内。無人。無音。
砂利を踏む音だけが響く。じゃり、じゃり……。
茅森の拝殿が見える。
甘腐れた香り。
「祈ってはいけない……」
風の中、祖母の声。
立ち止まる。
私、なぜ来た? 答えがない。
踵を返す。――影。
細い箒の影が、足首にかかる。
息が止まる。心臓が喉まで跳ねる。
「あんた――覚えてるよ」
老女だ。
背は丸く、唇は痩せているのに、眼は三年前の本殿で見たあの時のまま――刃物のように冴えている。
「⚪︎月⚪︎日、大潮の日の午後三時。あんたら二人で来ただろう……なのに、どうして”こっち”にいない?」
心臓が苦しく脈打つ。
老女は私の胸元を掴み、こう囁いた。
「……祈らなかったね……欠員が出たんだよ……代わり、要るのさ」
ドクン。
老女の瞳が背後の森に合図を送った。
枝葉が一斉に裏返り、ざわめく――何かが、姿形を持たない”何か”が私の元に這い寄ってくる。
全身の毛が逆立つ。
踵がまるで粘土に沈むようだ。
逃げろ。身体が叫ぶ。
一度も振り返らず、全力で走った。
砂利の音が聞こえる。何かが、迫っている。
背後で風が吹いた。「祈ってはいけないよ」亡き祖母の声が、木の葉の擦れに紛れて聞こえた。
転げ落ちながら山を抜けた。
……その後、私は2度とあの村には行っていません。
今でも時折、思うのです。
――あの日、祈ったのが”私”だったなら。