その男は、机の前で絶望をしていた。
ここは、古い木造アパートの一室、狭いワンルーム。男の部屋だ。壁は日焼けし、床の畳はところどころ窪んでほつれている。
男は20代前半、中肉中背のどこにでもいる男性だった。派遣のアルバイトで生計を立てている。
だが、彼には一つ奇妙な点があった。
それは、彼が小説家を自称していたことだ。しかも、まだ一度も小説を最後まで書き上げたことがなかったのにだ。
彼は、自分が小説の天才だと確信していた。
なぜなら、彼が思いつくアイデアは、他のどの小説家も並ぶことができないほど斬新だし、物語のプロットは、考えているだけで泣き笑い、感動してしまうほどだったからだ。
もちろん、作品は完成していないから、自己評価ということになる。だが、自分の小説は間違いなく傑作だと、彼は自信を持っていた。
そんな彼に、昨日、小説のアイデアが降ってきた。彼はそのアイデアに興奮した。脳内を駆け巡るスリリングな言葉たちを、原稿用紙に書き写そうと机に齧り付いた。脳と筆が直結しているかのように、スラスラと筆が進む。そうして彼は、小説の10分の1の文量を1日で書いてしまった。
彼はすっかり満足して、その日はぐっすりと寝れた。
ところが今日、朝起きて、彼はあることに気づいた。昨日と同様に机に向かい、小説の続きを書こうとするが、筆は全く進まないのだ。男が宝石のように思えた物語は色褪せてしまっていた。
少し前まで、彼の頭の中には、間違いなく偉大な作品の原石がそこにあった。ところが、その作品の輝きは失われ、見るも無惨な姿となって、原稿用紙に横たわっていた。
そうして彼は机の前で絶望していたのだ。
「あぁ、まただ……」
実はこのような悲惨な体験は、彼にとって今回に限ったことではなかった。
彼は、何度か、同じように天才的なストーリーを閃いて、それを書こうとしたことがあった。しかし、いつもどこかで小説の魅力が失われてしまい、彼は最後まで自分の小説を書き上げることができなかった。
彼は苦悩していた。自分が最後まで作品を書けないことを。だがそれ以上に、世界中にいる彼の小説を心待ちにしている未来の読者に対して、作品を届けることができずにいたからだ。
彼は結局、その小説を書き上げることはできなかった。彼が書きかけた無数の小説たちは、家の机の引き出しで眠り続けていた。
小説を完成させられずに悩み続けた彼だったが、ある時、自分が小説を完成させられない本当の理由に気づいた。
それは、お風呂に入りながら小説のアイデアを考えている時、誰かに監視されているような気がしたのがきっかけだった。
「間違いない…」
彼の仮説によれば、この世には、他人の才能を盗む謎の存在がいる。それを彼は「才能泥棒」と呼んだ。
それは、彼にとって最も恐ろしい存在だった。
「才能泥棒」は、才能がある人たちを常に探している。そして、才能が開花しそうな人物を発見すると、ひっそりと近くにやってきて見張るのだ。
「才能泥棒」は、才能の芽が芽生えた瞬間を狙って、その才能の芽を刈る。
だから、才能があるのに「才能泥棒」に目をつけられた人物は、才能が発揮されたとしても、すぐに奴らに刈り取られ、その才能を潰されてしまうのだ。
「なんと言うことだ」彼は頭を抱えてしまった。
「私は才能泥棒に目をつけられてしまったようだ」
この真実に気づいた彼は、悩んだ末に、自分の実情を伝えるべく、出版社に行くことにした。
*************
「初めまして。持ち込みですね」編集者が彼に挨拶をした。
対応してくれた編集者の男性は、短髪で体型はスラリとした長身、グレーのカジュアルスーツを着て清潔感のある人物だった。どうやら彼より少し年上のようだ。
「お忙しい中お時間いただき、大変申し訳ありません。ですが、実は、まだ私の小説は完成していません」
編集者が顔をしかめる。
「では、そちらの原稿は?」
そう聞いたのは、彼が原稿用紙の入った封筒を持っていたからだ。封筒には手書きで「お詫び文」と大きく書かれていた。
「そう。私の小説はまだ完成してません。今日は、その原因が判明したので、その実情を説明にきました」
そう言って、彼は編集者に封筒を渡した。
「では、読ませてもらいますね。」
少し呆れたような表情の編集者が、原稿を読み始めた。
最初、編集者は椅子に背を預けて、見下すように原稿をパラパラとめくっていたが、次第に表情が引き締まり、めくる指に力が入りはじめた。しまいには前のめりになり、原稿に夢中になっている。
「これは凄い小説ですね!特に、才能泥棒の描写が素晴らしい」
編集者が弾けるように彼の顔を見て言った。
「いえ。先ほどもお伝えしたように、それは小説ではありません。これは、私の小説を待ってる読者のために、なぜ小説を完成されないか、その理由を書いたものです。言うなれば、私の小説を心待ちにしている読者に向けての、お詫び文です」
「なるほど。それでタイトルが『お詫び文』だと。しかし、これだけの完成度でも、まだ現状に満足されていないんですね」編集者が感心したように言った。
「もちろん、現状には満足していません。ですので、私の小説が完成するのを待つ読者のために、この原稿を掲載してもらえればありがたいと思いまして」
「もちろんそうさせてください。おそらく…、いや、間違いなく、良いご連絡ができると思います」
そうして、編集者との面談は終わった。
後日、編集者から、彼に「お詫び文」の掲載が決まったことを伝える電話があった。
彼はほっとした。自分の小説の完成を待つ読者たちに自分の現状を知ってもらえたからだ。あとは、才能泥棒の目を掻い潜り、小説を完成させるだけだ。
ところが、才能泥棒は手強くて、彼の小説は一向に完成しなかった。
彼は焦り、さまざまな工夫をして才能泥棒から逃れようと奮起したが、中途半端な原稿が机の引き出しに増えるだけであった。
その間、なぜかわからないが、彼の「お詫び文」が世間で人気らしく、彼の口座に大金が振り込まれた。
「世の中不思議なことがあるのものだ」彼は不思議に思ったが、彼の小説の完成への期待に対する支援金だと思い、ありがたく頂戴した。
それから継続的に、編集者から小説の要求があった。
彼は、まだ小説が完成しないため、再び才能泥棒についてお詫び文を書くことにした。彼らがどれだけ卑劣で、狡猾かを書き、自分の葛藤を書き連ねた。
こうして、数年おきに「お詫び文」を載せていたのだが、ある時、編集者から「お詫び文」を映画化したいという話がきた。
「先生の作品の映画化、絶対にうまくいきます」
編集者は、いつの間にか彼を先生と呼ぶようになっていた。
「先生はよしてください。まだ何も発表できていないのですから。しかし、奇特な人たちがいるのですね」
彼は首の裏をぽりぽりと掻いた。いくら私の小説の完成を待つファンが大勢いるからと言っても、ここまで熱心だとは思わなかった。まさか、私のお詫び文を映画化するとは。
その連絡からしばらく後、いつものアルバイトから帰る途中、街中には彼の映画の看板で溢れかえっていることに気がついた。映画は大ヒットしたようだった。
それを横目に見ながら、彼はいつもの狭いワンルームの自宅に帰った。
「さて、そろそろ、小説を完成させないとな……」
そう言って、彼はまだ見ぬ小説の完成のため、机に向かうのだった。